こんにちわ。煙々創苑のとしめです。
(ビデオゲーム制作の話です)
Claude Opus 5.5が世間を驚かせている・・・
Claude Opus 5.5 drew every frame of this animation in JavaScript.
— Kevin Ngo (@kevin_t_ngo) September 22, 2026
Everyone in town sends Claude their requests, but one girl sends a question instead: "What do you love?" pic.twitter.com/g18wIYEqCr
これまでもLLMの新モデルが出るたびに驚いてきたけど、今回はもう、なんか脱力してしまうほどだった。Fable 5やChatGPT Astraもまだ記憶に新しいけど、Opus 5.5はさらに何かが一段階変わった感じがする。
ビジュアル面の能力が凄まじい。モーショングラフィックスやUIなど、ルックに関しては映像もゲームももう製品レベルに近い。
今までは、コーディングエージェント自体にはあまり視覚センスがなく、そういった類のタスクをさせる場合はChatGPTのImageGenといった画像生成スキルを多様する必要があった。
Claude 3.7画伯の描いたポケモン絵が味わい深すぎて「これはアーカイブしなくては」と思ったのでポケモン図鑑作らせた。gifは個人的ベスト10、愛おしい
— としめ (@toshime528) February 26, 2025
(画伯とかいったけど、特徴捉えるのが上手くて圧巻)https://t.co/0ID9hCD0X8 pic.twitter.com/PpRvQOq7wB
(1年半前の最新LLMはこんなに味のあるsvgを描いていた。懐かしい・・・)
しかし、こういった画像生成はある程度LLMと脳みそが分離されており、そこがボトルネックではありつつ人間が介入する余地でもあった。
対してコイツはもう直に視覚と繋がっている。もうImageGenとか関係なくテキスト生成によるドット打ちである程度良い絵を描ける。根本的に視覚センスのある状態で思考ができるから、人間がコンテキストを繋ぐ必要すらなく勝手にいい感じに制作できてしまう。

モチロン、万能ではない!!けど、テキスト生成ベースで人間相当のセンスを持ち始めたということが示されて、今後この方向性で驚異的に進化することは明らか・・・。
この点が、今回何かが明確に変わった感じの正体なのだと思う。
ちなみに、ゲームでいえば、「遊び」についても、ある程度自律的に組めてしまいそう・・・な気配すらある。
まあ、結局これも数週間経てば「すごい」の定義のほうが変わっていくのだろう。悲しいなあ。
こんなこと書いてもなあと思いつつ、こういう出来事って、時間が経つと当時の飛躍感をなんとなく忘れてしまう。
なので、当時の人類の一人はこんなコト思ってたんだ、というログとして残しておく。
思えば驚いてばかりだった。DALL·E 2、Stable Diffusion、NovelAI、ChatGPT・・・。
「ゲームはまだだろうなあ」と思っていた頃が懐かしい。なんと、開業する前に廃業の危機になってしまった。
ゲームもついにAIによる大生成時代に突入した。イラストや動画と同じように、これから大量にあふれかえることになる。
そこにはポン出しの中途半端なAI製ゲームもあれば、しっかり人間と仲良く作った神ゲーも含まれるだろう。ただ、ゲームはイラストや動画と違って能動的で、時間を占有する。まあ、遊ぶのにコストがかかる。なので、自分のゲームを遊んでもらうこと自体の競争率が桁違いに上がる。今でも既にそうだけど、いかに短いプレイ時間で満足感を得てもらえるかが、もっと大きくなっていくだろうなあ。
そうなると、「人間は何をすればいいのか」「対外的にどういうゲームが価値を持つのか」「作り手自身のモチベーションをどう保つか」を考えなきゃいけない。。
人間は、「人間である」というブランドを持っていること、背景と目的を持っていること、現実をセンシングしてノイズを入れられること。このあたりに特化した存在になっていくんだと思う。
まず対外的に⋯
遅かれ早かれ、「面白いゲーム」はAIが作れてしまうという予兆が見えた。
ただ、AIには特性的に「一般論理的に」面白いものを作るバイアスがある。写実的なルックや、いわゆるmasterpiece的なルック。企業がやるような、法則に基づいて計算されたプランニング。順当に作られる普通に面白いゲームは、もうAIが作ればいいと思ってしまう。
AIとは別の文脈だけど、作り手の側からも近い方向の話が出ていた。
上田文人さんと高橋慶太さんの対談に、「もうメカニクスの時代じゃない」というやりとりがある。
『ICO』、『ワンダと巨像』の上田文人氏は、高橋慶太氏の新作『to a T』をどう捉えたのか? 「ビデオゲームはもっと自由でいい」とふたりが語る、ゲームの”いま”とこれから
記号的なメカニクスを探索する時代は、終わりを迎えたのかもしれない(?)
計算で組める部分はAIが担うようになる。だから人間は、写実じゃない手描きで、作り手の背景や文脈が際立つような、論理的に面白さを測れないけど脳のどこかを刺激する、変なゲームのほうへ傾いていくんだろう。人間は、人間にしかできなさそうなことをやることで喜びを得るので。
……というような話はよく見かけるけれど。
自分にとって切実なのは、作り手のモチベーションの話だ。
売りたいから作るならまた別だけど、作りたいから作っている以上、内在的なモチベーションをどこに置くかを気にしないと、自分は迷子になってしまいそうだと思った。
イラストでもプログラミングでもそうだけど、道具に頼っていると、道具の自律性/主体性が上がるにつれて、自分が迷子になる。どっちも、まだ道具が不完全だった頃は人間が舵を持って制作できたから、楽しかった。でも人間が介入しなくてもいい感じにしてくれるようになって、(ゲームを作るという目的のための効率化次第では)そこのモチベーションは捨てざるを得なくなった。最近のAIでつらいのは、中途半端に人間が舵を持って作るより、AIに舵を握らせたほうが、基本的にある程度いいトコロまで行くようになったこと。舵を渡さなきゃいけないのか?という気持ちにさせられる。ただ、これは(現状は)錯覚でもあって、最高到達点へ行くためには人間がコアにいる必要がある(ケンタウロス)。と信じたい。
……とはいえ、これもいつまで言えるか。
こういう状況への対応は、イラストやプログラミングのような単一の仕事であれば、ある程度シンプルで残酷に、「手で描く」か「任せる」かを選べばいい。ただ、漫画やアプリみたいに複数の仕事が複合すればするほど、特にゲームでは、モチベーションの置き方が何通りもあり得てしまう。

自分の企画したゲームを作りたい人は、そうである以上、AIに任せて余裕ができるなら上のほうへ登ろうとする。一方で、作っているときの楽しさ自体は、下流工程(実装やおえかき)から来ていることも多い。なので、迷子になる(溺れる)。海は下からどんどんせり上がってきていて、今回で決定的な所まで来たな、という感じ。
AIに対する反応がゲーム制作者の中でまちまちなのは、たぶんこれのせいだ。ゲームを「自分の手で作った感じ」のコアがこの図のどこにあるか、その配分が人それぞれなのだろう。企画/プロデューサータイプの人は歓迎的で、職人タイプの人はもやもやしているように。究極的には、おえかきそのものにモチベーションがある人は、おえかき以外をAIにやらせて、自分は楽しくおえかきし続ける、というのもアリかもしれない。
品質で勝てるかどうかは、いったん置いておく。それより、自分のモチベーションの配分がこの図のどこにあるのかを自覚して、楽しいところはAIにやらせてたまるかという気概で、手工芸的に関わり続けるのがいいんだと思う。
まあ、このへんは本当に、再三言われている絵画と写真みたいな話なのだろう。
肖像画は計算機に任せて、抽象画・印象派ゲームを加速させよう。